たぶん、涙に変わるのが遅すぎたのね。

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お気に入りのフレーズ(村上春樹)

自分について語ろうとするとき、ぼくは常に軽い混乱に巻き込まれることになる。

 

「自分とは何か」という命題につきものの古典的なパラドクスに足をとられてしまうわけだ。

 

 

つまり純粋な情報量から言えば、 ぼく以上にぼくについての多くを語ることのできる人間は、この世界のどこにもいない。

 

しかしぼくが自分自身について語るとき、そこで語られるぼくは必然的に、語り手としてのぼくによって――その価値観や、感覚の尺度や、観察者としての能力や、様々な現実的利害によって――取捨選択され、規定され、切り取られていることになる。

 

 

とすれば、そこに語られている「ぼく」の姿にどれほどの客観的真理があるのだろう? 

 

ぼくにはそれが非常に気にかかる。というか、昔から一貫して気にかかってきた。

 

 


しかし世間の多くの人はそのような恐怖なり不安なりをほとんど感じていないように見える。

 

 

人々は機会があれば、驚くほど率直な表現で自分について語ろうとする。

 

たとえば「わたしは馬鹿がつくくらい正直で開けっぴろげな人間なんですよ」とか、「わたしは傷つきやすく、世間とうまくやっていくことができない人間です」とか、「わたしは相手の心を見抜くのがうまい人間です」とか、そういうことを口にする。

 

 

でもぼくは「傷つきやすい」人間が、他の人々の心を無用に傷つけるところを何度も目にしてきた。「正直で開けっぴろげ」な人間が、自分では気がつかないまま都合の良い理屈を振りまわすところを目にしてきた。

「人の心を見抜くのがうまい」人間が、見え透いた口先だけの追従に手もなくだまされているところを目にしてきた。

 

 

とすれば我々は実のところ自分についていったいなにを知っているというのだろうか?

 


そういうことを考えれば考えるほど、

ぼくは自分自身について語ることを(もしそうする必要があるときでも)、保留したくなった。

 

それよりはむしろぼくという存在以外の存在について、少しでも多くの客観的事実を知りたいと思った。

そしてそのような個別的な事柄や人物が、自分の中にどのような位置を占めるかという分布なり、あるいはそれらを含んだ自己のバランスのとり方なりを通して、自分という人間存在をできるだけ客観的に把握していきたいと思った。

 

 

 

これはぼくが十代をとおして自分の中ではぐくんできた視座であり、もう少し大きく言うなら世界観であった。

 

ちょうど職人がぴんと張った紐に合わせてひとつずつ煉瓦を積んでいくように、ぼくはこのような考えかたを自分の中に積みあげてきた。

論理的というよりはむしろ経験的に。思惟的というよりはむしろ実務的に。

でもこのようなものの見かたをわかりやすく他人に説明するのはむずかしい――ぼくは様々な局面で身にしみてそれを学んだ。

 

 

 

 

 


 たぶんそのせいだろう、思春期半ばのある時点から、ぼくは他人とのあいだに目に見えない境界線を引くようになった。

 

どんな人間に対しても一定の距離をとり、それを縮めないようにしながら相手の出かたを見届けるようになった。

 

 

人々が口にすることを鵜呑みにしないようになった。

 

ぼくが世界に対する留保のない情熱を見いだすのは、本や音楽の中に限られていた。

そして当たり前のことかもしれないが、ぼくはどちらかといえば孤独な人間になった。

 

 

スプートニクの恋人pp.84-86)

 

 

 

 

以前からわたしの内面にあった曖昧で不確かな感情をうまく言葉にしてくれている一節です。