たぶん、涙に変わるのが遅すぎたのね。

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大きい声が、必ずしも正しい意見ではない

《自由に考えられることが本当の豊かさ 》

 

 

領土問題にしても、「あんな島、向こうにやれば良いではないか」という意見を、僕は何人かから直接聞いた。

しかし、そういう意見を、マスコミはけっして伝えない。何故だろう? 日本人だったら、絶対に言ってはいけないことなのだろうか。

 


 ロシアの学者で、北方領土は日本のものだと主張している人がいる。これを知ったときには、「ああ、ロシアというのは、さすがに先進国だな」と僕は思った。

 

成熟した社会であれば、いろいろ意見が出て、それを公開できるはずだし、冷静に、喧嘩腰にならずに、議論ができるはずなのだ。

それができないのは、僕には「遅れている国だな」としか思えない。

マスコミはもう少し考えて、賢くなってもらいたい。

いちいち「日本固有の領土である●●」なんて言わず、「両国がお互いに領土だと主張しあっている●●」と言えば良い。

それが客観的な報道ではないだろうか。


 もちろん、僕は日本人だから、「あの島が日本のものだったら良いな」とは感じる。

でも、そんな希望で話をするわけにはいかない。注意をしてもらいたいのは、「願い」を「意見」にしてはいけない、ということだ。

 

 

(中略)

 

 

 

社会では、沢山の人がそれぞれの分野の専門となって仕事を分担している。

なんでもみんなで多数決を取る、というのは考えもので、それぞれその専門家がかんがえるほうが、まちがいがない。

 

 

原発反対の人が多いから原発は廃止すべきだ、という数の理論は成り立たない。それが成り立つなら、税金は安いほうが良いということになるし、領土は、人口の多い国のものになるだろう。

 

 

大勢の「感情」を煽って、声を大きくすれば社会は動く、という考え方は、民主的ではなく、ファシズムに近い危険なものだと感じるのである。

戦争だって、国民の多くの声で突入するのだ。「国民の声を聞け」というが、その国民の声がいつも正しいとは限らないことを、歴史で学んだはずである。

 

そこにあるのは、多くの人たちが、ものごとを客観的に見ず、また抽象的に捉えることをしないで、

ただ目の前にある「言葉」に扇動され、頭に血を上らせてら、感情的な叫びを集めて山びこのように響かせているシーンである。

 

一つ確実に言えるのは、「大きい声が必ずしも正しい意見ではない」ということである。

 

 

できるだけ多くの人が、もう少し本当の意味で考えて、自分の味方を持ち、それぞれが違った意見を述べあうこと、そしてその中和をはかるために話し合うことが、今最も大事だと思うし、

誤った方向へ社会が地滑りしないよう、

つまり、結果的に豊かで平和な社会へ導く唯一の道ではないか、と僕は考えている。

 

 

森博嗣「人間はいろいろな問題についてどう考えていげ良いのか」より

客観的な捉え方をできるようになりたい

自分が得た情報を、別の情報と照らし合わせたり、理屈を考えて、どうしとこういったものが伝わってきたのだろう、といちいち考える人も少ない。

 

そんな暇はないのかもしれない。

しかし、ちょっと考えてみれば、「これはできすぎている」「嘘かもしれない」と疑うことができるはずだし、その情報の陰に隠れている動機、相互関係といったものを類推することもできる。

 

もちろん、真実はわからないが、自分なりの解釈を持つことで、ものの見方は変わってくるだろう。

 

自分なりのものの見方を持っていることが、客観性や抽象性を育てる。

 

「見えるもの」がすでに偏っている。

 

現実に見えるものの多くは、誰かによって見せられているものであって、

その人にとって都合の良いように加工されているため、そのまま受け取ってしまうと、結果として渦の中へ吸い込まれていくことになる。

別の言葉で言えば、知らず知らず、他者に「支配」されてしまうのである。

 

 

たとえば、ファッションには流行というものがある。今年は何色が流行る、というような情報が流れる。

どうして、そういうものがあるのだろう?

 

それは、みんなが同じものを買うことが、生産者にとっては高利益だからだし、また、買う方にとっても、考えなくても良い、という利便性があるからだ。

このため、流行を知らない人は「遅れていると」人であって間違っている と言わんばかりの印象を、捏造するのである。

 

 

 

出典:森博嗣「人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか」

お気に入りのフレーズ(村上春樹)

今にして思えば、わたしは自分が強いことに慣れすぎていて、弱い人々について理解しようとしなかった。幸運であることに慣れすぎていて、たまたま幸運じゃない人たちについて理解しようとしなかった。健康であることに慣れすぎていて、たまたま健康ではない人たちの痛みについて理解しようとしなかった。わたしは、いろんなことがうまくいかなくて困ったり、立ちすくんでいたりする人たちを見ると、それは本人の努力が足りないだけだと考えた。不平を口にする人たちを、基本的には怠け者だと考えた。当時のわたしの人生観は、(略)温かい心の広がりを欠いていた。そしてそれについて注意してくれるようなひとは、まわりには一人もいなかった。

 

 

スプートニクの恋人

お気に入りのフレーズ(森鴎外)

高校時代。

 

わたしは(たまに理不尽なことで怒られることもありましたが、基本的には、)優等生でした。

 

 

勉強を頑張っていたので

つねに全教科の総合成績もトップクラスだったし、

学校を休んだこともなく。

いわゆるガリ勉タイプの優等生の子も

いたけど、

わたしは

勉強以外の色々なこととのバランスも

とても良く頑張ったと思います、我ながら。

ぜんぶ頑張ってた。

 

冗談を言って人を笑わせることもできたし、

いろんな最新の話題や流行にも敏感だった。

趣味もたくさんあった。

学校行事も楽しんでいたし、

異性からも人よりモテて、

スポーツも人より得意だった。

 

 

 

自分で言うのも変だけど、

先生たちがわたしに期待の目を向けてくださり

個人的に非常に熱心に指導してくれているのも伝わってきたし、

 

 

ほかの生徒たちからも

一目置かれているのは分かった。

もちろん親しい友達はいて、そんな友達といるときはバカ騒ぎのようなこともしたりしていたけれど、

そうでない多くの人たちはわたしのことを壁を隔てた少し離れたところから見ていた、そんな感じ。

それに、なんとなく気を遣われているのを感じることも多々あったり。

 

勉強もスポーツでき、異性からの人気があったからなのか、親しくない女子たちからは妬まれ根拠のない悪口を言われることもあった。

 

 

 

こう書くと、自慢ばっかみたいで、

めちゃめちゃ嫌なヤツみたい笑。

 

でも、違うんだよなあ。

当時わたしが不器用ながらも

何事も懸命に頑張っていたのは、

勤勉な性格だからとか、

勉強や、自分の成長が

楽しくて仕方なかったからとか

じゃないんだよなーーと。

怖かったんですよね。心のどっかで。

自分の根は怠け者で弱い人間、頭の悪い人間、要領の悪い人間であることを知っていたから。

 

 張り詰めた糸が一度の気の緩みで

プツンと切れてしまったら、

もうその意図を手繰り寄せることは難しく、

堕落の一途をたどってしまうことになる、

わたしはそれが怖かった。

 

そんな怯えの中で、

努力をやめなかったのも事実だし、それゆえに自分に自信がついたのもまた事実で、

未来に対して大きな希望を抱きそれに向かっていた頃もありました。

そしてそののちに、「ああ、それも一瞬。」と悟りました。

 憧れ、夢にやぶれ、人生最大の挫折を経験したからです。

 

 

森鴎外舞姫」にこんな一節があります。

 

文体が古いので

 

あとに日本語訳をつけてます。

 

 

以下、お気に入りの一節です。

 

 

 

かの人々(※)は余がともに麦酒の杯をも挙げず、球突きの棒をも取らぬを、かたくななる
心と欲を制する力とに帰して、かつは嘲りかつは嫉みたりけん。されどこは余を知らね
ばなり。嗚呼、この故よしは、我が身だに知らざりしを、いかでか人に知らるべき。我
が心はかの合歓といふ木の葉に似て、物触れば縮みて避けんとす。我が心は処女に似た
り。余が幼きころより長者の教へを守りて、学びの道をたどりしも、仕への道を歩みし
も、みな勇気ありてよくしたるにあらず、耐忍勉強の力と見えしも、みな自ら欺き、人
をさへ欺きつるにて、人のたどらせたる道を、ただ一筋にたどりしのみ。よそに心の乱
れざりしは、外物を棄てて顧みぬほどの勇気ありしにあらず、ただ外物に恐れて自ら我
が手足を縛せしのみ。故郷を立ち出づる前にも、我が有為の人物なることを疑はず、ま
た我が心のよく耐へんことをも深く信じたりき。嗚呼、かれも一時。舟の横浜を離るる
までは、あつぱれ豪傑と思ひし身も、せきあへぬ涙に手巾を濡らしつるを我ながら怪し
と思ひしが、これぞ なかなかに我が本性なりける。この心は生まれながらにやありけん、
また早く父を喪ひて母の手に育てられしによりてや生じけん。
かの人々の嘲るはさることなり。されど嫉むはおろかならずや。この弱くふびんなる
心を。

 

※この一節の直前に、

大学で、「日頃ベルリンの留学生のなかで、ある勢力のあるグループと私の間に、つまらないいざこざがあって、その人たちは私を疑い、ついには私を悪く言うようになってしまった」

という部分がある。

 

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 以下、現代語訳です。

 

 

その人たちは、僕がいっしょにビールも飲まず、ビリヤードもしないのを、頑固な心と禁欲的な考えからだと思い、けなしたりうらやんだりした。しかし、それは僕のことを知らないからだ。ああ、そのわけは自分でさえわからなかったのに、どうして人にわかるはずがあっただろう。僕の心は、例の「合歓(ねむ)の木」の葉のように、ものに触れると縮んで避けようとした。僕の心は少女のように、か弱かった。幼いころから、目上の者の教えを守って学問をしたのも、官僚の道に進んだのも、すべて、勇気があってしたことではない。忍耐力・集中力と見えたのも、すべて自分をだまし、人さえもだましていたことであって、人が引いたレールの上をただまっすぐに走ってきたに過ぎない。ほかのことに興味がそれなかったのは、富や名誉を捨ててもかまわないという勇気があったからではない。ただ、外界のものを恐がって自分で自分の手足を縛っていたからだ。日本を出発する時までは、自分が人の役に立つ人間であること、また、自分に忍耐力があることを疑わなかった。けれど、ああ、それも一瞬。「ああ、豪傑だ、英雄だ」と思っていたが、船が横浜の港を離れるや、ハンカチでは間に合わないほど涙がとめどなくあふれた。そのことを我ながら不思議だと思ったが、それがかえって本来の僕だったのだ。この臆病な心は、生まれつきのものだったのだろうか、あるいは、早くに父を亡くして、母の手で育てられたからそうなったのだろうか。

だから、その人たちが僕をばかにするのはもっともで、的を射ている。けれども、どうして嫉妬するようなことがあろうか。こんなことは羨むようなことではないのだ。(実際には、僕の心は弱く哀れだったのだから。)

 

 

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歴史に名を残した文豪と自分を 

似ている、なんていうのは

おこがましいし、恐れ多いんだけど、

これを初めて読んだ時は、

 

当時の自分がなんとなく感じていたのあのよく分からない感情を

こんなふうに分かりやすく

表現されたものに出会えたことに

非常に感動しましたね。

 

 

 

 

 

 

想像力って大切だね。

自分の家庭環境とか

育てられてきた境遇、とか完全に無視して

自分の頑張りや努力や能力‘だけ’でここまで来たんだ成功したんだと本気で思い込んでる人って、

そうでない人や困窮しているひとのことを

単に本人の努力不足や怠惰が原因だとみなして軽蔑したり過剰な自己責任論を主張するから怖いなと思うのです。

 

 

 

 

想像力の欠如ってのは

恐ろしいなあと、痛感する。

とりわけ、他者の境遇に対する想像力の欠如は。

 

これをされたら相手はどんな気持ちになるだろうか、嫌じゃないだろうか?とか、

そういった精神的なことに対する想像力は、

いわゆる「思いやり」として、

思いやりは大切なんだよーと、幼少期からよく大人たちから言われていることなので、比較的容易に思われる。(実際に思いやりを持てているか持てていないかは別としても、そういった思いやりが大切であることは、だいたい皆わかってる。)

 

 

ただ、他者の“境遇”に対する想像力、

となると、そうでもないようで。

なかなか意識してその想像力を持ちながら他者を見ている人は、多くないように思う。

 

こういう私も、日頃から気をつけているつもりではいるけれど、無意識のうちに、

外側からは見えない背景事情や境遇に思いを馳せず、自分の目に見えている部分、知っている部分だけで相手を判断してしまっていることが

あったかもしれない…。

 

 

私が怖いと思うのは、

 

 

自分の家庭環境とか、今まで育てられてきた境遇とかを

完全に無視して

 

自分の頑張りや努力や能力‘だけ’で

ここまで来たんだ!成功したんだ!!!と

本気で思い込んでる人たち。

 

 

そういう人たちは、

 

幸運であることに慣れすぎていて、

たまたま幸運じゃない人たちのことを

理解しようとしない。

 

いろんなことがうまくいかなくて困ったり、

立ちすくんでいたりする人たちを見ると、それは本人の努力が足りないだけだと考える。

不平を口にする人たちを見ると、努力もしない愚かな怠け者の戯言だと考える。

 

困窮しているひとを見ると、

単に本人の努力不足や怠惰が原因だとみなして、軽蔑して、

過剰な自己責任論を主張するようになる……

 

考えただけでも恐ろしいですが、

現実として、

こういったことがよく見られます。

 

 

みんながみんな、あなたと同じ境遇で生きてきたわけではないんですよと。

その人はその人で、背景にいろいろな事情があって、そうなっているんですよと。

 

そのことを常に、頭の片隅にでもいいから、

念頭において他者を見だけでも

優しい世界に なるんじゃないかなと

思います。

 

あらゆる投資を一点に集中させる必要性

スポーツの分野でも芸術の分野でも

趣味でも特技でもなんでも、

ビジネスや起業でもなんでも、

なにか大きな仕事を成し遂げて

成功した人というのは大抵が

1つの物事に集中的に取り組む膨大な時間と資金に恵まれていた、

ということがあるのだし、

そうゆう意味では(それに使える時間や資金のことは、生きてきた境遇もあるし、今すぐにどうこうできる話ではないけれど)

今の自分みたいに色々なことに興味が分散してるうちはダメで

もっと盲目的なまでの一点集中した関心と狭い視野が必要なんだろうなぁ

なんて気づきはじめた最近。

感情的にならないように。

 

大事故があったせいで、原発反対の声が大きくなっている。事故があって初めて危険性を知った人が多いわけだが、こういう経験をしたのなら、この経験を抽象化して「事故が起こる以前から、もう少しなにごとも心配した方が良い」という展開をしたいものである。

そうでないと、今回の教訓を活かせないことになる。

太陽光発電風力発電や、新しい技術に危険はないのか、とどうして今疑わないのだろうか?

 

活断層の上に原発があるとたしかに危険な感じがする。であれば、活断層の上を新幹線は走っていないだろうか、となぜ心配しないのか。

 

地震があったとき、原発は事故を起こすかもしれないが、そこで直接死亡者が出る確率は低い。

現場にいるのは、原発で働く職員だが、これらの人たちも、また周辺地域の住民も、避難をする時間的余裕があるだろう(現に、今回の事故でもそうだった)。

一方、活断層の上を走る新幹線に乗っていれば、何百人何千人という命が奪われる可能性が大きい。

そういう考えを誰もしないのは何故だろうか?

 

誤解しないでもらいたい。

僕は、原発賛成派でもないし、また、新幹線を即刻廃止しろと言っているのでもない。

 

ただ、少なくとも、賛成や反対と声を上げるならば、そういう指摘に対して、きちんと答える、あるいはせめて調べるくらいの姿勢が必要だし、自分なりの意見をしっかりと確認してからにしてもらいたい、と思うだけである。

 

「どうして、原発は即刻廃止で、鉄道は廃止にしなくても良いのか?」という、

「疑問」を書いただけで、

「福島の人の気持ちをどう思っているのか?」と怒り出す人がいるのだ。

 

僕は、疑問を持ち、

それについてなんらかの答えを聞きたい、

と言っているだけである。

 

どこの国のどの原発の話をしているわけでもない。具体的な情報を調べたわけではない。

 

 

もっと抽象的な、本日の議論を聞きたいのだ。

 

 

 「悪い者は悪い。こんなものを許すことは絶対にできない。反対しない人間は間違っている。そんな間違った人間の意見など聞いてはいけない。」というように聞こえる。

こうなってしまうと、もう一種の人種差別に近い。

 

 

ちょっと抽象的に考えてみよう。原発は、原爆のように悪事を働くために存在するものではない。

それくらいは認めても良いだろう。

電気を作るために、社会のみんなのために作られた装置だ。

であるから、「原発をすぐなくせ」と主張するならば、その分なにかで電気を得る方法を提示しなければならない。

だから、原発を今すぐ廃止しろと主張する人は、少なくとも、原発はさに代わる発電方法の安全性を、原発並にしっかりと確かめる必要があるはずだ。

天然ガスや石炭を燃やす火力発電は、ついこの前まで、「温暖化の主原因であり、地球環境を破壊する悪の根源だ」とバッシングされていたではないか。

そこのところの解釈を、僕は聞きたいのである。

 

 

 

もう一度書くが、僕は原発に賛成しているわけではない。

活断層の上を走る新幹線に乗るときは、ある程度覚悟をして乗っている。

 

同様に、原発だって、もしものときの覚悟を、みんなは既にしていたのではないのか、ということである。

 

 

出典:森博嗣「人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか」

 

 

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どっちが正しいとか間違ってるとかの判断をくだすほど私はその分野に詳しくないし、専門家でもないので、迂闊なことは言えませんが、

 

ただ、感情的な意見しか出てこない側(なぜかだいたい、反対派に多いんですよね。)に対しては

そう考えた客観的な理由を聞かせてくれよ、と

いつも思います。

 

 

賛成派のひとたちの論拠はしっかりしているのだけど、

 

反対派からは、客観的で論理的な根拠が

全然聞こえてこない。

感情論ばかりだから、全然説得力がない。

 

 

ことが多い気がしますね…。