優しい人とは、人の憂いのわかる人。
優しいって字はさ、
にんべんに『憂い』って書くだろう。
あれは『人の憂いが分かる』って意味なんだよ、きっと。
それが優しいってことなんだ。ようするに。
ようするに?
想像力なんだよ。
(伊坂幸太郎)
私の尊敬する人に、こんな人がいます。
目に見えてる部分から
短絡的に他人のことを
決めつけたりするんじゃなくて、
表に出てる言葉と行動は
(無自覚レベルの)本当の気持ちとは必ずしも一致してないってことと、
その人はその人なりに色々な背景事情があってそうなってるんだということを想像して、
それを常に意識して、
他者の言動や境遇を注意深く見ることができている、とても思慮深い人。
この人は本当に優しいな、本当の思いやりだなって思った。
それって意外にむずかしくて、
当たり前に出来ている人はなかなか少ないんじゃないかなぁ。
往々にして人は、
自分の目に見えている部分だけで
都合よくレッテル貼りをして
たとえば、黒と白のあいだにはグレーゾーンが無限に広がっているはずであり、そこにないはずの赤色や青色や黄色がなぜか混在していたり、光が差していたり、暗い暗い影が落ちていたり、複雑な様相をしているのに、
それに目を向けようともせず、
その人はこうゆう人だ、と決めつけてしまったり、
自分の目に見えている部分だけで判断して、
この人は○○だから良いよなぁ〜苦労知らずで、とか
この人がいま窮地に陥っているのはこの人の以前の行いが悪かったから当然のことなのだ、救いの手を差し伸べる必要はないのだ、
と、勝手に決めつけたり
してしまいがち。
日々の生活に追われるなか、
他者のことをよく考えるってことはとってもエネルギーのいることだし、
たしかに、誰かのことをてきとうに決めつけて片付けてしまうほうが楽チンかもしれない。
「優しい人」と言ったときに、一般的によくあげられる要素の中には、たとえば、
みんなに対して物腰の柔らかい優しい態度や発言で接する人だったり、気配りのできる人だったりというのもある。
でも、相手にとって気持ちの良いこと、当たり障りのないことしか言わないのは、本当の優しさなのか。
「嫌われたくない」「自分を安全なところに置いておきたい」そんな気持ちが働いているばっかりに、あくまでも良い人でいようとする、
じつは汚くて ずるい人なのかもしれない。
たとえば、よくお土産を配ってくれたり仕事や課題を手伝ってくれたり、そんな気配り上手であることは、本当の優しさなのか。
「みんなに好かれたい」「自分の存在感を高めたい」「良い人だと言われたい」という見返りを求めているだけなのかもしれない。
「人からこう思われたい」という感情で見返りを求めて行う優しさは本当の優しさではないと思います。
(もちろん、偽善的な優しさであっても、それで相手が幸せになれるならそれで良いのでは?という意見もあるし、それはそれで間違いではないのかもしれない。)
でも、その、表にはなかなか現れてこない人の憂いを想像することはなかなかの気力のいること。
だから本当の意味で人に優しくなるためには、
まずは、自分に余裕があることが必要。
すなわち、自分の精神を鍛えることが必要なんだと思う。
https://twitter.com/cernobyl/status/791185370650071040
(非常に共感したツイートを引用させていただきます。)
もちろん、容姿が良くて
自分の外見に自信のある人は、
そこからくる心の余裕というものがあって、それゆえに人の憂いに対して想像力を働かせるだけの余裕も生まれるんだろうけど、
外見というものは、どんな美しい人だったとしてもやっぱり、残念だけれど、歳をとるとともに美しさを保てなくなるのは仕方のないことだし、永遠ではない、頼りにならないもの。
それに依存した優しさは年が経つとともに、
いつか無くなってしまう。
でも、精神的な強さに裏付けられた優しさなら。
年月が経って、たとえ、外見が衰え、容姿の美しさによる心の余裕が失われたとしても、
精神的な強さに裏付けられた優しさなら、
変わることはないんだろう。
その強さがあれば、人の憂いや、自分の目には見えていない部分がどうなっているのか、ということに対して、想像力を働かせるだけの心の余裕が保たれる。
もちろん、その想像をしたところで、自分には、事実がどうなっているのかは知る由もないかもしれないし、想像した内容と実際とには、すごく大きな相違があるかもしれない。
それでも、つねに想像力を働かせながら人を見ていよう、上辺だけで短絡的に決めつけたりせずに、思慮深く注意深く相手のことを見ようと、
一人一人が心がけているだけでも、
思いやりのある優しい世界になっていくんじゃないかなと思う。