たぶん、涙に変わるのが遅すぎたのね。

読んだ本 聴いた音楽 見た映画やドラマ 行ったライブ 美術展過去の経験談 考え 悩み

どんな人であれ、テレビに出まくると多くの人の目に触れるわけだから自然とファンがついて人気にはなるんだし、では本来この人(たち)自身になんの他の人より秀でた独自性や実力や才能があるの???この人たちでなきゃできないものを提供してます???と思うパターンのもの

プロデュースとか曲提供する人たちさえいてくれれば、べつにこの人じゃなくちょっと似た他の人だったとしてもそれなりに成功してたでしょ、と思えるパターンの人(たち)になんの価値も魅力も感じないわ〜〜。

歌手とかアイドルとか演技の下手くそな俳優とか。

大勢の人や親密ではない人と話した後にひどく疲れてしまう。

私はなんだか人と話した後にひどく気疲れてしまうことが多い。

 

よほど心を許していて、本当の私を理解してくれていて(と少なくとも私にはそう感じられて)忍耐強く長い話を聞いてくれる人と2人きりであれば平気だし、むしろ好きなんだけど。

 

そうでもない限り、仲の良い友人なんかであっても、たとえば、その場その場の会話はそれなりに普通には楽しめたり冗談を言って笑かせることもできるしみんなで大笑いもできたりはできるのだけど、

 

その時のその時間が終わって1人になった時、先ほどのは、

もっとふさわしい表現があったのにうまく伝えきれなかった(うまく言語化できなかったな)と落ち込む。

 

 

 

文章を書くことによって気持ちや考えを述べるなら、推敲を重ねることができるし、時間制限もないから、まだ、実際の自分の内面にできるだけ近づけた言語化を試みる余地がある。

 

でも、会話中は難しい。

普通に何人かで会話してる最中って大抵は、どんどん話題は変わっていくし、

他のひとが話し始めたりもして、あんまり1つについて掘り下げるだけの時間的な余裕もないし、誰もそれ以上つっこんでこなければ自分からだらだらと詳細やそれに至る経緯を話し出すのも変だし、それゆえ、なにか質問された時なんかも、一言でパッと簡潔に答える必要が生じる。それがなかなか難しい。

 

 

今のじゃほんとに簡潔にしか伝えられなかったけどそんな一言でさらっと説明できるほど単純な話じゃないのに!!

そこに至るまでいろいろ複雑な思考回路あってのそうなってるんだよ!!!

でも数秒では話しきれるほどのことではないし…あーー!!、と思って、

とてももどかしくなるのです。

 

そして、自分の複雑な考えや気持ちの中の、ほんの断片だけしか伝えられないとか、もしくは、本当に簡潔な言語化のせいで実際とは少し違う意味になって相手に伝わってしまうくらいなら、いっそなにも伝えないほうがマシだという気持ちになってしまって、

 

いつからか、たとえば大勢での飲み会みたいに、そこまで親しくもないたくさんの人たちが集まってほとんど表層的で軽い会話をノリと勢いだけでサラッとするような場だとか、あまり忍耐強く人の話を聞こうとしない人との会話は(もともとあまり好きではないが、)ますます、苦手になっていった。

 

そういう場では

忠実に心の中を言語化する余地が与えらていないから。

発言した後で 今のは違ったな…ほんとはこうゆうことを言いたかったのに、と考え込んでしまってしんどいから。

優しい人とは、人の憂いのわかる人。

優しいって字はさ、

にんべんに『憂い』って書くだろう。
 あれは『人の憂いが分かる』って意味なんだよ、きっと。
 それが優しいってことなんだ。ようするに。
 

ようするに?

 

想像力なんだよ。

 

伊坂幸太郎

 

 

 

 

 

私の尊敬する人に、こんな人がいます。

 

目に見えてる部分から

短絡的に他人のことを

決めつけたりするんじゃなくて、

表に出てる言葉と行動は

(無自覚レベルの)本当の気持ちとは必ずしも一致してないってことと、

 

その人はその人なりに色々な背景事情があってそうなってるんだということを想像して、

 

それを常に意識して、

他者の言動や境遇を注意深く見ることができている、とても思慮深い人。

 

 

 

この人は本当に優しいな、本当の思いやりだなって思った。

 

それって意外にむずかしくて、

当たり前に出来ている人はなかなか少ないんじゃないかなぁ。

 

往々にして人は、

自分の目に見えている部分だけで

都合よくレッテル貼りをして

 

たとえば、黒と白のあいだにはグレーゾーンが無限に広がっているはずであり、そこにないはずの赤色や青色や黄色がなぜか混在していたり、光が差していたり、暗い暗い影が落ちていたり、複雑な様相をしているのに、

それに目を向けようともせず、

その人はこうゆう人だ、と決めつけてしまったり、

 

自分の目に見えている部分だけで判断して、

この人は○○だから良いよなぁ〜苦労知らずで、とか

この人がいま窮地に陥っているのはこの人の以前の行いが悪かったから当然のことなのだ、救いの手を差し伸べる必要はないのだ、

と、勝手に決めつけたり

してしまいがち。

 

日々の生活に追われるなか、

他者のことをよく考えるってことはとってもエネルギーのいることだし、

たしかに、誰かのことをてきとうに決めつけて片付けてしまうほうが楽チンかもしれない。

 

 

「優しい人」と言ったときに、一般的によくあげられる要素の中には、たとえば、

みんなに対して物腰の柔らかい優しい態度や発言で接する人だったり、気配りのできる人だったりというのもある。

 

 でも、相手にとって気持ちの良いこと、当たり障りのないことしか言わないのは、本当の優しさなのか。

「嫌われたくない」「自分を安全なところに置いておきたい」そんな気持ちが働いているばっかりに、あくまでも良い人でいようとする、
じつは汚くて ずるい人なのかもしれない。

 

たとえば、よくお土産を配ってくれたり仕事や課題を手伝ってくれたり、そんな気配り上手であることは、本当の優しさなのか。

 

「みんなに好かれたい」「自分の存在感を高めたい」「良い人だと言われたい」という見返りを求めているだけなのかもしれない。

 

 

「人からこう思われたい」という感情で見返りを求めて行う優しさは本当の優しさではないと思います。

 

(もちろん、偽善的な優しさであっても、それで相手が幸せになれるならそれで良いのでは?という意見もあるし、それはそれで間違いではないのかもしれない。)

 

 

 

でも、その、表にはなかなか現れてこない人の憂いを想像することはなかなかの気力のいること。

 

 

だから本当の意味で人に優しくなるためには、

まずは、自分に余裕があることが必要。

 

 

すなわち、自分の精神を鍛えることが必要なんだと思う。

 

https://twitter.com/cernobyl/status/791185370650071040

(非常に共感したツイートを引用させていただきます。)

 

 

もちろん、容姿が良くて

自分の外見に自信のある人は、

そこからくる心の余裕というものがあって、それゆえに人の憂いに対して想像力を働かせるだけの余裕も生まれるんだろうけど、

外見というものは、どんな美しい人だったとしてもやっぱり、残念だけれど、歳をとるとともに美しさを保てなくなるのは仕方のないことだし、永遠ではない、頼りにならないもの。

それに依存した優しさは年が経つとともに、

いつか無くなってしまう。

 

でも、精神的な強さに裏付けられた優しさなら。

 

年月が経って、たとえ、外見が衰え、容姿の美しさによる心の余裕が失われたとしても、

 

 

 

精神的な強さに裏付けられた優しさなら、

変わることはないんだろう。

 

その強さがあれば、人の憂いや、自分の目には見えていない部分がどうなっているのか、ということに対して、想像力を働かせるだけの心の余裕が保たれる。 

 

もちろん、その想像をしたところで、自分には、事実がどうなっているのかは知る由もないかもしれないし、想像した内容と実際とには、すごく大きな相違があるかもしれない。

 

それでも、つねに想像力を働かせながら人を見ていよう、上辺だけで短絡的に決めつけたりせずに、思慮深く注意深く相手のことを見ようと、

一人一人が心がけているだけでも、

思いやりのある優しい世界になっていくんじゃないかなと思う。

 

 

 

 

 

 

 

記念日を気にしすぎるのは本末転倒な気もする。

 

クリスマス。

商業戦略に踊らさられてたって、

本人が楽しめたりワクワクできるんなら

それはそれで良いのだし、

私だってどちらかというと、

 

まあ付き合って○ヶ月記念とか付き合って○年以内みたいなものは、くそくだらねーなw○ヶ月なんて一瞬で過ぎるし、○年ったってそんなもん毎日が記念日だろ!とか思う派女子なんだけど、

それでもまあクリスマスにはワクワクしてきた人生だし、クリスマスは何かしたいな〜なんて思う派ではあるのだけど、

 

キリスト教徒で無い人にとって

クリスマスなんて

ある時どこかの誰かがそう設定した日であって

本来(人類の始まりの始まりの頃、みたいな意味で)12月25日という日付にはなんっの意味も無いわけで、

たとえば本当に確かな精神的なつながりを感じていて愛し合っているカップルなら

言ってしまえば

わざわざ記念日なんて制定してそれに則ってお祝いなんかしなくたって、毎日が記念日みたいなものだし、

 

お互い忙しい日々の中、それぞれ時間や心に余裕があるときに自由に、恋人のことを改めてゆっくり想ったり、たまにプレゼントを選んでみたりすれば良いわけです。

わざわざ世間の流れと足並み揃えて、「その日に何か特別なことをしなければ…!!」という強迫観念のようなもの(笑)、に

かられる必要は無いでのでは?と思います。

 

だから、

よくある、忙しい彼に対する彼女のワガママ

「クリスマスなのに!?」

「記念日なのに!?」

と怒り爆発させて彼を困らせるのは

ほんとに本末転倒なんですよね。

 

ちょっと 煽るような言い方をすれば、

 

イベントや記念日に寂しく過ごすのが嫌でその恋人と付き合ってるのかい??

 

記念日にカップル写真をSNSに載せることで承認欲求を満たしたいのかい??

 

いちいち記念日を気にしなきゃお互いを思う機会が普段無い、その程度の 自信の無い関係なのかい??

 といった具合になります。笑

 

 

「クリスマスに何もしない人間は寂しい」

みたいな、企業やマスコミによって作り上げられたイメージに完全に洗脳されちゃってるんでしょうかね。

 

そうゆうわけなので、

クリスマスを平常運転で過ごす人や

とくに普段となんら変わらない過ごし方をするよそさまのカップルに対して

「クリスマスなのに!?何もしないの!?かわいそう!」みたいなお節介を

言ってるひとなんて見たら

なにを言ってんだかコイツは…、、

と個人的には

思ってしまいます。(笑)

 

あくまでも個人的な感想です。

記念日を気にすること、それはそれで自由なことだと思います。

数学を学ぶ意味

数学なんてなんの意味があるの?

こんなこと勉強しても一生使わない!

 

と思ってる人に教えてあげたいのは、

 

ごく一部の限られた人たちだけがその知識を用いて綿密な知的活動を経て製品化なり制度化なり色々したものを、

多くの人々がそれとは知らずに利用して、なにも考えずに便利な日常生活を送っているので、
たしかに、多くの人々は学校で学んだ事項をそのまんま使う機会なんか一生ないでしょう。

でも、ほんとに数学が世の中に不要だと思ってんだとしたら、かなり大変なことです。笑

 

 

関数、微分積分、サインコサイン、確率…あんなもの何の役に立つの??と言うひとがよくいるけれどそれは世の中の仕組みを知らなさすぎるだけ。

数学ほど今の世の中に役に立っている学問はないともいえます。

今の世の中に数学がなければ私たちの身の回りから消えるものばかり、数学ナシでは生活は成り立ちえないといっても過言ではありません。

わたしたちが日常生活を送る中で何気なく利用しているパソコン、スマートフォン、家電製品、自動車、電車など、すべての基礎は数学だし、もっと言うと食品から衣類、書籍類まで、あらゆるものがいまや数学ナシでは製造されていません。

 

 

ここにおもしろい記事があるので紹介しておきます。

『見る人によっては「こんなにもたくさんの数学が必要なのか」と感じるかも知れないが、現代社会で役に立っている数学の広がりからすれば、この表に登場する数学はあまりにも狭く小さい。
 分業の結果、我々は互いに依存しあう関係を個人的には掌握できないまでに広げることで、信じられないほど多くの営為を知らない他人にやってもらっている。
 つまるところ、この程度の数学で飯が食えて、なおかつ文明が維持できるのは、たくさんの誰かが私の知らないところで、代わりに数学していてくれるからである。』

 元記事:100の職業でどんな数学を使うのか1枚の表にまとめてみた http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-625.html

https://twitter.com/kurubushi_rm/status/770594634925871104

 

 

 

「そうは言っても、将来、数学や理科を用いて製品を開発したりする仕事につく人たちは一部の賢い人たちだけだ。自分含め多くの人はそんなもの使わない人生を生きるから関係ない」と言う人がいるかもしれません。

 

 

 たまに誤解している人がいるんだけど、

中学や高校で習う数学はべつに計算力を鍛えるものではありません。
 

数学では、与えられた条件の中から目的のために必要なものを選び取り整理し、矛盾のないように筋道立てて思考し、合理的に解答に導く。最初から最後までどこにも論理の飛躍があってはいけない。そしてその考えた筋道を、採点者に伝わるように理路整然と記述する。


そうです。中学や高校で学ぶ数学を通じてわたしたちは論理的思考力を学ぶものです。

 

 アカデミックの世界では言うまでもなく論理的に考え論理的に伝えることが求められますが、アカデミックに限らず、
就活をしたり、社会人になって働き出すと、やたらと「ロジカルシンキングが大事」という言葉を耳にすることが増えます。

 

なぜロジカルシンキングが大事だと言われているのかというと

個人の主観や経験や感情に流されて誤った判断をしてしまい誤った方向へ突き進んでしまうことを避けるためだと思います。

これに加えて、
矛盾なく理路整然と伝えるべきことを必要十分に伝えることで自分の主張に説得力を持たせたり、相手の言っていることを理解してそれに対し過不足なく論点をずらすこともなく回答するために必要であるというのも、ロジカルシンキングが大事だと言われる理由として非常に大きいと思います。

 

集団は個人のあつまりでできています。
とすれば個人ひとりひとりが、感情的にならずに、冷静に、論理的に考える習慣をつけ、愚かな過ちをしないことが、結果的には、社会全体が豊かで幸せな方向へ進んでいくことにつながります。

 

社会全体の幸せなんて知ったこっちゃない!と言う人がいるかもしれませんが、

感情的になって思慮深さに欠けるとあなた自身が損をします。(損していることにすら気づかない可能性もありますが。)

それに、社会全体の幸不幸はあなた自身の幸不幸とも無関係ではありません。

 

 

 

巷にあふれるロジカルシンキング関連のビジネス書を読んで、付け焼き刃的なフレームワークやロジックツリーなんかの練習をするひまがあったら、中学や高校の数学の基礎を勉強しなおしたほうがよっぽど効果的だと思います。

なにもそんな難問を解ける必要はありません。

 

 

逆に言えば、高校レベルの数学の基礎をきちんと学び、大学受験でも数学の試験を受けて大学に入り、その後も数学に触れている人であれば

今さらロジカルシンキングなんてわざわざ気にするまでもなく、すでに鍛えられています。

 

 

私立文系出身者に論理的思考の苦手な人や数学アレルギーが非常に多いのは、

数学を学べなくても有名大学に入れてしまう逃げ道があったため、数学を学ぶことから完全に逃げてしまったからです。

個人的には私立文系も入試科目に数学を課すべきだと思っています。

 

私立文系が入試科目に数学を課していない理由として、

文系の人は数学だけがどうしてもできないという人が多いため、

数学から逃げた人でも受験できるようにしておくことが受験生の確保につながり、受験料を稼げるからというのが大きいと思います。

それはわかりますが、それであれば全大学で数学を必須にすればいいと思います。

そうすれば、数学から逃げていては大学には行けないので、大学に行きたい人はみんな数学を学ぶようになります。

教科数を極限までしぼって見せかけの偏差値だけ操作してやたら高くして、賢く見せようとしたって、中身が伴わないのでは、なんの意味もありませんからね。個人的にはそう思います。

 

変なこだわり

捨てられたら楽なんだろうなって思うこだわりがあるんですよね

 

なんか自分にとって困難なことをめっちゃ努力して乗り越えたいというか

自分にとって楽チンな道は選びたくないって強く思ってしまう……ここまで来たんだから苦手から逃げずやり抜きたいってこだわりも強くて、あえて克服すべきことも多い苦労する道を選んですごい頑張っちゃう(今までそういう人生でした)けど、やっぱり嫌なことからは逃げて要領よ~く自分にとって楽な近道選んでいたとしても最終的にたどりつく位置とかレベルとかゴールとかは同じかそれ以上な場合も多いんだよね…悔しいけどこれが現実。

 

そこは自分の強いこだわり、というかプライドのせいで楽なほうに逃げるようなことしたくないしそれじゃ張り合いがない、苦労する道を選んで達成したいってすごい思ってしまうというか、そうゆう変なところに固執しちゃう性格やから仕方ないのだけどね。

 

 


もっと素直にコスパとか要領の良さを追求することを良しとすることのできる賢い性格に生まれたかったなぁと思うことも多い(笑)

あとね
多少ずるいことしてでも、効率よく成果(いろんや意味で)を出したいなっていう正直な気持ちと、
自分の中に強く存在してる「こんなやり方は許せない」「私はこんなことする人間にはなりたくない」みたいな自分にとっての道徳観とか倫理観みたいなのを大切にしたいっていう気持ちとの2つがあって、私は後者を優先するくせに、

当たり前のように前者優先できる人を見たら正直うらやましいとも感じちゃう、この矛盾や葛藤に対処できなくてめっちゃ悩む………

どうせ強いこだわりとか道徳観とか正義感(笑)みたいなもの持つなら意思つらぬき通せよって感じなんやけど、結局その気持ちも中途半端やから
自分のためにずるいことしたり楽な方法を平気で選んで近道で成功してる人とかを見たら
そんなふうに思っちゃうんやろうね……ほんま中途半端やと良いこと無いね~…(*_*)

………なんかこの年になって思春期かよって感じですかね。
大学卒業後とか、今後のことも
大きく分けたら3パターンくらいで迷ってる

全然違う3パターン……どれを選ぶかで、やるべき準備もガラッと変わってくるから
早く決めないといけないけど……あ~、って感じ。

ハイリスクすぎて路頭に迷う可能性大というか自ら可能性を狭めに行くようなもんだしな。そんな冒険しまくれる余裕もないから諦めるべきことは諦める勇気と諦めずがんばるべきことの見極めが大切やなー。取捨選択むずかしいなあ。
こんなことになるならあの時ああしとけば良かった……ってのがゴロゴロ出てくる。
負のスパイラルだー。笑